2020年10月19日
2020年9月10日、長年、女子部で英語を教えてくださった渡辺くみ先生がご逝去されました。
G20では訃報に 次々と先生を追悼するメッセージが寄せられました。
ほんの一部ですが、教え子たちの共通の想いとして、「くみ先生に贈る」言葉を掲載させていただきます。
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一生のうちで、恩師と慕う先生に巡り逢える事ほど幸せな事はありません。渡辺くみ先生なくして私達の学年は語れないくらい先生のお力は素晴らしかったです。素早く相手の個性を把握、的確な言葉で励ます。言いかえれば生徒達の心を掴んで目標に向かう意欲を引き出す。出来なくても見捨てず根気よく刺激を与える。 これで皆、知らない間にレベルアップしていたと思います!授業の内容もリズム良く、楽しい授業でした。 ご自身の生きる姿勢は常に前向きで降りかかった困難も健気に跳ね返し、 ちょっと可愛らしくも見えてしまう。
70歳、80歳になられても潑剌としていらっしゃる。 私はずーっと 先生の背を追いかけておりました。 身をもって《若さ》を示してくださいました。くみ先生、ありがとうございました。<梅澤一江>
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凛とした佇まいのくみ先生は、その内に汲んでも尽きない豊かで深い知識の泉と、想いを行動で実践される大いなるエネルギーの双方をお持ちでした。思い出されるのは、1つの単語に端を発し、まるで糸車を操るように、次から次へとそれに因んだ興味深い話に繋げてくださる見事さです。シェイクスピアからワーズワース、クリスマスソングから諺に至るまで、毎回の授業が楽しみでした。毎日の授業での単語の小テストに始まり、早朝や放課後の補習には率先してお声掛けくださいました。4人のお子様の母でありながら、これらのことをやり遂げる、責任を果たすべく行動で示され、そこで信頼を引き寄せられる・・。先生のこうしたお姿が今では私の日々の信条となっています。先生を想うとき、ピンと背筋を伸ばさずにはいられません。<村木弥生>
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“How did you learn English? ” こう聞かれると私は決まって、”I had a very good teacher at high school for five straight years.” と答えます。5年間、ほぼ週に3回、渡辺先生はいつも教科書とそこに挟んだ小さなメモ用紙だけで、私たちに一秒の隙も与えないスピーディで中身の濃い授業をされました。あの小さな紙には何が書いてあるのかしらと私は不思議で仕方がありませんでした。でも最初の授業で筆記体を習った日には家に帰って大泣きした女の子がいつの間にか英語大好き人間になったのですから、先生の華奢な手に収まっていたあのメモに素晴らしい魔法が隠されていたのは間違いありません。そして私自身が英語指導者として社会人や受験生、大学生の前に立つようになったとき、気付いたのです。渡辺先生はあのメモに授業の準備を凝縮させていらしたのだと。
私も英語を学ぶ人たちに先生のような魔法を少しでもかけることができたらと願っています。ですから先生、いつまでも私に魔法をかけ続けていてくださいね。先生は私の原点です。<荻本邦子>
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お腹が大きかった時のくみ先生をよく覚えています。自分が母親になって悩むことがあっても、くみ先生のその姿を思い出せば頑張れました。また、卒業後の私たちの人生の要所要所において、くみ先生は、その想いを共有していてくださったことに気づきます。同期のひとりが、当時、まだまだ難関だった司法試験に合格したことを、何十年も経ってから、「あの時、新聞の合格者欄に、名前が載ってたのを見た時は、本当に嬉しかったわ」と先生は仰ったのです。くみ先生は、教え子の人生をも一緒に歩いてくださった恩師だと思います。<治子>
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私たちG20は、渡辺くみ先生を、中2から高校卒業までの5年間、独占した。学年末に、受け持ちが変わるらしいと知った私たちは、くみ先生に教えて欲しいと嘆願する署名運動をしたのだ。効あってか否か、私たちは英語はもちろん担任としても、多感で繊細な時期をくみ先生にあずけて有形無形に影響を受けた。
忘れることのできない、中2のある日の授業中、事務室からの呼び出しで教室を出られた先生はその日から1週間程、クラスには戻っていらっしゃらなかった。理由を知ったのはずっと後のこと。アメリカに単身赴任中のご主人が現地で落馬し亡くなられたというショッキングなものだったにも関わらず、くみ先生は、その後も変わらず柔らかな笑みを絶やすことなく私たちに接し続けた。その時、先生は4人めのお子さまを出産された産休明けまもなくだった。私たちは、子供心にも、くみ先生の姿に、人としての気高さと強さを学んでいったと思う。
授業中も先生は、板書の時以外は、教壇に立たれなかったと記憶している。常に私たちと同じ目線でいらした。憧れ尊敬される存在であっても同じ高さに居続けることを望まれた。卒業時に先生は “Where there is a will,there is a way.” と私たちを送ってくださった。くみ先生の生き方そのものだ。 今、私の手元には新聞の切り抜きが残る。先生が61歳でヒマラヤ未踏のチャルン峰登頂に成功した写真付きの記事。ピッケルを持って高々と両手を挙げた雄姿が写る。あれほど華奢な体躯に秘めた不屈の精神で、くみ先生は生涯を歩き抜いた。晩年まで地球の秘境を旅し続けた先生は、コロナ禍で断念した北欧行きを最後まで願っておられたと、あの時、生まれたばかりだった末っ子のお嬢さん(渡辺たづ さん・G34)が話してくださった。今頃、天空を自由に羽ばたいておられるはずの くみ先生に深い追悼の念と謝意を捧げたい。<佳子>