2010年6月18日
2007年8月
長男の宗太郎(当時7歳)とテレビで、憧れの大先輩である竹下景子(G19)さんがナビゲートしている医療番組を見ていました。当時の宗太郎は、ベッドに寝たきり、鬱状態になっていました。そんな彼が、テレビを見ながら「宗太郎も治りたい。」と呟きました。
宗太郎は先天性の「ヒルシュシュプルング病類縁疾患」という病に冒され、生と死を行ったり来たりしながらも、医師団のご尽力のおかげで辛うじて小康状態を保っていました。しかし、7歳ながら、体重は約11Kg、ほぼ、2〜3歳児の体格です。
体は小さいながらも、心はそれなりに成長していたようでした。
医師に何度危篤を告げられても、「宗太郎に限って絶対大丈夫。」と彼の生命力を信じていました。それと同時に、治療方法がない病で、少しずつ体中いたるところが蝕まれ、死がひたひたと近づいてきていることは頭のどこかではわかっていました。
言葉がでない私に、宗太郎はまた、「宗太郎も治りたい。」と。宗太郎の大嫌いな大手術をしなければならないことを告げても、「手術を受けたい。」と、彼ははっきりと答えました。
その当時、小康状態と言いながらも、実は状態が悪すぎて、唯一、生命を維持するための移植手術を受けることすらできないと告げられていた私はどうしたらよいのか、どう答えて良いのか、途方にくれていました。
その後、東大病院をはじめとする医師団のご尽力のおかげで、何とか、移植手術が受けることができる位の体調に、漕ぎ着けることができました。
(それでも、渡米後、移植医師団からはあまりにも小さく状態の悪い宗太郎を診て、「無理だ。」の声が上がったのですが、宗太郎の懸命のリハビリで何とか乗り越えました・・・)
当時、日本では15歳未満の子供は脳死移植(宗太郎は多臓器移植が必要なため脳死移植のみでしか助かる方法がない)を受けることが、実質できない状態でした。
これは、15歳未満の子供は本人の意志の確認ができないため、ドナーになることができないという法律があったからです。
その上、宗太郎は多臓器(胃、小腸、大腸、膵臓、肝臓)移植が必要でしたので、その手術を受けることができる施設は、アメリカに限られていました。
アメリカで手術を受けるには、保険が使えないため、その費用は医療費だけでも最低1億円を超えるものでした。
宗太郎が入院してからずっと疎遠になっていたのにもかかわらず、私のたくさんの友達が集まり、医療費を集めるための募金活動を始めてくれました。そして、ここで、ほんとうに、びっくりすることが起こりました。
南山の頃のお友達が、「こんな時、頼るべくは、やはり、”南山!!””常盤会!!”」
と、学校にお願いに足を運んでくれました。幸いなことに、お世話になった先生方がご健在で、野呂先生(現副校長先生)、田中雅行先生を中心に、生徒会が動いてくださることになりました。そして、友達同士の口コミ、ニュースを見て・・・と、あっという間に輪が広がり、同じ南山の卒業生というだけで、男子部も女子部も、そして、年齢も何も関係なく、皆さまが一丸となり、応援してくださいました。
忘れもしない、大雪降る節分の日、大須の街角に震える手で募金箱を持ち、大きな声でお願いしてくださった方たちもいらっしゃいました。
それは、まるで、中・高校時代の文化祭、体育祭を思い起こさせるような一致団結とした、大きな大きな力でした。
こんなに温かい学校で育ったことに本当に感謝し、こんな思いやりに溢れる卒業生、在校生を育てて下さった学校関係者の方々に感謝し、そして、そんな学校を選び通わせてくれた両親に本当に感謝いたしております。
本当にありがとうございました。
こんな大きな力の後押しを受け、たった2週間あまりで1億2千万円を超えるお金が集まり、宗太郎は、無事、アメリカに渡ることができました。生きることができるかもしれない、と、8歳の子が考えるにはあまりにも哀しい夢が、現実になるかもしれないとなったときから、宗太郎は宗太郎自身の道を自分で歩み始めました。瞳をキラキラと輝かせ・・・、この先に、大手術が待ち構えているのにも関らず・・・。
そして、それまで、命の灯火を絶やさぬことができるかどうかもわからないのにも関らず・・・。そして、最も大切なことは、宗太郎が「命の輝きを持つ」ということは・・・、大切な大切な、「もう一つの大きな命を受け継ぐ」ことです。手術の後は、ドナーになってくださった子と二人で一人、今以上に一日一日を大切に、
感謝を持って生きるという、重大な任務を背負って生きていくことになるにも関らず・・・、彼はそれを自ら進んで請け負い、自分の身をもって皆さまに見ていただくぞという、そんな印象を受けるほどの気迫すら感じられる生き様でした。
おかげさまで、移植手術は無事、成功しましたが、その数日後、また、想像を絶する事態が宗太郎を襲いました。それは、「GVHD」と言って、ドナーのリンパ球が、宗太郎を攻撃するものでした。宗太郎のそれは非常に酷いものでした。彼の頑張りで、一時は回復するかにもみえましたが、残念ながら、手術から6ヶ月後、2008年9月28日、宗太郎はお星様になりました。それは、彼の9歳の誕生日の2日後のことでした。
9年という本当に短い人生でしたが、生まれてからずっと、頑張って頑張って頑張り抜いた、非常に濃い人生だったと思います。そして、いつも泣いてばかりのふがいない私を、天真爛漫な笑顔で支えてくれました。そして何よりも、私を”ママ”でいさせてくれました。「ママ」と呼ばれる幸せを感じさせてくれました。そして、人工呼吸器を着けなければならないほど呼吸状態が悪い中、最期に「ママ、ありがとう、ありがとう」との言葉を遺してくれました。
尊敬する南山の大先輩がおっしゃってくださいました。「宗ちゃんの生き様は、まさに”人間の尊厳のために”のお言葉通りね、ちゃんと、あなたを通して南山の精神を受け継いでくれたのね。」と。私にとって、これ以上ない、最上級のお言葉でした。今でも、このお言葉を思い出すと、熱いものがこみ上げてきます。
こんな素晴らしい子に育ててくださった周りの方々に本当に感謝しております。
そして、宗太郎の母で在れたことに、いえ、在れることに心より感謝しております。
本当にありがとうございました。
そして、南山という母校が、更に紡いでくれたご縁があります。竹下景子さんとは、募金活動が始まってすぐの頃、同じ南山の卒業生であり、宗太郎が「治りたい」、「手術を受ける」と、「病」に対して、初めて自らの意志を口にだしたきっかけを与えて下さったテレビ番組のナビゲーターでいらっしゃったことに、不思議な、そして、大きなご縁を感じ、メールを出させて頂いたことが始まりでした。渡米直前には、激励のお電話を下さったり、アメリカで闘病中の宗太郎に、彼の大好きな梅干しを届けてくださったり、折々にとても温かいお心をかけて下さいました。
そして、昨年末、お食事をご一緒させて頂く機会に恵まれ、この9月に行われる「朗読会」に繋がることになりました。
この朗読会は、すべて手作りのチャリティ・イベントとなっております。宗太郎が身をもって教えてくれた、「生きる命の輝き、尊さ、そしてその命の陰にはたくさんの”ありがとう”があること」、それをいつまでも伝えていきたいという思いをもってくださった仲間が集まり、「そうたろうの会」となり、企画して下さっていました。
宗太郎は私にこんなステキな仲間達も遺してくれたのです。
僭越ではございますが、朗読していただく本は、私が宗太郎と共に歩んだ日々を書かせて頂いた、「ママ、ありがとう」です。朗読して下さるのは、竹下さんです。
竹下さんがそれを快諾して下さる折、一つの条件を、私に差し出されました。それは、「優子さん、あなたも一緒に舞台に上がるのよ。」という、思いもかけない一言でした。宗太郎がお星様となり、ただ一人、地上に残され、どのように歩んでいけばよいのか彷徨う私が、少しでも前に進むことができるようにと、竹下さんは、勇気を下さったのに違いありません。その温かな眼差しに気がつき、感謝を込めて、この朗読会で、ピアノ演奏(なんと、12年ぶりです!)に関わらせていただくことに致しました。最後まで、舞台の上で私の役目を務め上げることができるか・・・、かなり不安ですが、宗太郎の思いを少しでも伝えることができますよう、9月のその日まで、精進いたしたいと思っております。
最後になりましたが、卒業して20年経つ今、皆さまのおかげで、この思い出深い、南山講堂の舞台に立つことができますことを、心より幸せに思い、感謝の気持ちでいっぱいです。本当にありがとうございます。
各務優子さん プロフィール
G37
“「ありがとう」を伝えるべく奮闘中?”