2016年5月29日
私は瀬戸市で、灰釉彫紋という作品を作陶しております。
彫紋とは、器の表面を1本1本彫って波の模様等を表わします。灰釉は木を燃やして出来る木の灰を主成分とした釉薬です。
灰釉は瀬戸で初めて作られた釉薬です。それまでの無釉陶器が、施釉陶器になりました。自然釉(窯で陶器を焼く時に木を燃料として燃やした灰が器に掛かり溶けた釉薬)から発祥した釉薬です。
私は瀬戸市無形文化財「陶芸灰釉」保持者として認定を受けております。
瀬戸の焼き物にてついて少しお話しいたします。
瀬戸物の瀬戸という言い方があります。焼き物の事を関西地方から東の地域では瀬戸物といい、西の地域では唐津物といいます。昔から瀬戸の焼き物が全国に流通していました。瀬戸では、今焼かれている焼き物を瀬戸焼といって区別しております。
瀬戸地域では古墳時代から奈良時代に須恵器が焼かれました。須恵器の技法は中国から朝鮮を経て、朝鮮の陶工が日本へ伝えました。還元焼成された土器ですが、とても技術の高い焼き物です。猿投古窯の出土器が有名です。平安時代になると中国との貿易が盛んになり、多くの焼き物が輸入され、日本の焼き物は衰退し技術も失われました。
鎌倉時代になると灰に長石を混ぜ合わせ釉薬として意図的に器に掛ける様になり、灰釉瓶子等が作られました。これが日本で最初の施釉陶器です。灰釉の中に鉄分を加えた鉄釉等から鎌倉中期に瀬戸物を代表する釉薬の古瀬戸が生まれました。長い間日本の焼き物は中国陶器の模倣でした。
安土桃山時代に「瀬戸山離散」があり、瀬戸の窯屋が瀬戸の地を離れて、他の地域で窯を焼きました。これもいろいろ諸説があり、織田信長がスパイに使ったとの説もあります。この時代は最も日本らしい焼き物が焼かれ、「志野」「織部」「黄瀬戸」の器が焼かれました。
江戸時代に尾張徳川家が窯屋を瀬戸へ呼び戻し、瀬戸の焼き物を保護し、名古屋城内に御深井窯を築いて瀬戸物を改良し、日本中に瀬戸物が行き渡りました。
一方、九州有田で朝鮮の陶工李参平が磁石を発見して磁器が焼かれるようになると、陶器が売れなくなり、瀬戸は苦境になり、加藤民吉が有田へ行き手法を学んできました。今でいえば産業スパイをしてきたのです。
瀬戸へ帰った民吉はすぐ磁器の制作を開始しております。これ以降瀬戸では陶器制作の窯屋を本業と呼び、磁器制作の窯屋を新製焼と呼ぶようになりました。
瀬戸は、陶器も磁器も生産する町となり、陶器も磁器もひっくるめて瀬戸物と呼ぶようになりました。
平成28年 6月1日(水)~7日(火)松坂屋名古屋店本館8階美術画廊にて
「田沼春二作陶展」を開催します。ご高覧いただければ幸いです。
プロフィール
瀬戸市指定無形文化財「陶芸灰釉」保持者
(公社)日本工芸会正会員
(公社)日本工芸会東海支部監事
瀬戸陶芸協会常任理事
瀬戸市社会教育委員