2017年10月31日
今夏,念願のサンチャゴ巡礼(スペイン)を無事果たした.800km,41日間の道のりは古希を目前にした身体には楽ではなかったが,終わってみればその苦痛さえも懐かしさに変わるところが,身体的労苦のいいところである.
男女とも寿命が80歳を越えた今の日本で,70歳を「古来,稀なり」というのも何だか変である.しかしこの近辺の年齢群に残された最後のメイン・イベントが,自らの「死」であることは昔も今も変わらない.四国遍路の霊場などで「ポックリ逝けますように」という札をよく見かけることがある.詰めの局面が,自・他にとって苦痛の時間とならないように願うのは死にゆくものの当然の思いであろう.しかし思い描いた通りに,死を迎えられないのもまた人生である.で結局,自分らしい死を準備するとは,それまでの時間をどう生きるかということになるのではあろうか.
「どう生きるか」と改めて問われても,たじろぐばかりである.これを「やり残したことは何かないか」というような質問に変えてみると,身の丈にあった願望がまだ自分の中に残されていることに誰しも気がつく.私の場合,サンチャゴ巡礼もそういうやり残しのひとつだったのであろう.
わたしの出自-『沈黙』の舞台のふるさと
2017年の年明け早々に,マーティン・スコセッシ監督の新作『沈黙』が公開された.
これはキリシタンの殉教と彼らの呻吟を通して,自らの信仰を問い直すポルトガル人宣教師の心の葛藤を描いた遠藤周作による同名の小説の映画化である.映画としても秀作であった.
わたしの家族の出自はこの『沈黙』の舞台になった肥前長崎にある.長崎は細く深い湾の奥にあり,波静かな南蛮船の停泊地として開かれ発展してきた町である.その長崎湾を両側から挟みこむようにして取囲んでいるのが彼杵と野母の両半島である.
この半島が途切れ,湾が東シナ海に広がる辺りにいくつかの小島がある.五島列島へ向かう連絡船に乗ると,両手を海にかざした大きな白亜のマリア像が右手に見えるが,それが両親のふるさと神之島である.良港は,常に防衛上の重要拠点でもある.徳川幕府は天草・島原の乱によほど懲りたのか,開府早々に切支丹弾圧とその根源と考えた南蛮との断絶に着手する.その南蛮船渡来防止策として,まずこれらの島々に防塁を築くことを決めている.神之島もその拠点のひとつとされたである.砲台と監視台の建設とその警護業務が,筑前黒田藩と佐賀鍋島藩に割り当てられ,藩内の下級武士の子弟の中から,跡取り以外のものがこれに駆り出された.
慶長年間には佐賀にもかなりの数のキリシタンがいたらしいが,この『沈黙』の時代には,徳川幕府のキリシタン宗門禁令の意向に沿って,まず藩主,上級家臣団が棄教し,多くの武士もそれに続く.しかし信仰とは命のよりどころでもある.棄教できないでいたものもいたはずである.こういうものたちにとって,藩内の神之島砲台建設事業は恰好の偽装・潜伏地となる.
1960年代に神之島は埋め立てられて彼杵半島と地続きになったが,当時は島々と半島の間には流れの急な瀬戸があり,小船での往来は容易なことではなかったろうと想像される.この監視の行き届きにくさが逆にキリシタン潜伏のための利点になったのである.
父方,母方ともその出自を資料で追えるのは,高曽祖父母の時代くらいまでである.
高曽祖父母は文化年間,曽祖父母は天保から安政年間の生まれと推定される.何の変哲もない庶民の典型ではあるが,直系の双方がその時点ですべて洗礼名を持っている点が当時の多くの庶民との違いである.キリシタン宗門禁令の高札(五榜の掲示)が下ろされるのが30年後の明治6年でるから,先祖はすべて禁令下での切支丹ということになる.つまり防塁建設労働者として来島した佐賀藩深堀領下士がわたくしども家族の先祖と推定されるのである.
なぜサンチャゴ巡礼なの?
父方は大正14年,祖父の代で,母方は昭和10年,母親の代にそれぞれ島を出ている.
文明が開けてからは,小船で小魚を捕る程度の漁業と急斜面の畑で菜を採る程度の農業では,家族を養うことはできない.そういう日本の近代化の大きなうねりの中で,祖父母たちも都会に身を寄せざるをえなかったのであろう.父方の祖父は47歳で大阪に出たが,77歳で亡くなる30年の間に9回も引越しをしている.無産のものが都会に産をなし,居を構えることは至難と想像される.家族兄弟が,依存しあって,時々の難局を凌いで来たのであろう.
島を離れる前までは,母方も,父方も10名前後の兄弟姉妹の全員が受洗している.
しかし戦後その子どもの代では,一人,二人と教会を離れ,孫の代(わたしの子どもの代)ではその数が更に増え続けている.
父は10歳で,母は18歳でそれぞれ島を出ているが,島では互いに面識がなかったらしい.親類に勧める者があり,都会で縁談が成り立ったわけであるが,互いにその時の最優先条件が宗教であったらしい.禁教下では訴えられでもしたら,ことと次第によっては死に直結することにもなりかねない.宗旨が結束の決定的な要因になった事情はよく判る.しかし信教の自由が保障されるようになってから,棄教するものが増え出すとは,何という皮肉であろうか.
誰しも残された時間が少なくなると,来し方を振り返りたくなるものなのか.防塁建設労働者として来島した佐賀藩下級武士から数えるとわたしで10代目くらいになるのであろう.宗門改めなどで,生き延びるために信じるものを裏切り,裏切ってはまた戻る.そういう『沈黙』の「キチジロー」のようなひとが,私の祖先にも何人もいたのであろう.しかしそういう弱さがあったからこそ,私の代にまでキリスト教の信仰が伝わったともいえる.そう考えると,決して模範的なクリスチャンとはいえないわたしでさえも,自分にとって「キリスト教とは何なのか,信仰とは何なのか」,残された時間の中で,自分なりの答えを出す必要性を感じる.サンチャゴ巡礼を思い立った背景にそんな思いがあったのかも知れない.
(次号へ続く)
プロフィール
岩崎清隆 (S18)
NPO法人 ぷねうま群馬 理事長
作業療法士
上智大学 文学部哲学科卒業(1971)
上智大学大学院哲学研究科終了(1973)
アメリカ,ピュージェット・サウンド大学大学院 作業療法学研究科 卒業(1985)
国際医療福祉大学 保健医療学専攻博士課程 満期退学(2006)
希望の家療育病院リハ課勤務(1978-1993)
群馬大学医学部保健学科(1993-2012)