vol. 125 岩崎 清隆(S18)「サンチャゴ巡礼雑感(後編)」 – Nanzan Tokiwakai Web
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2017年11月27日

vol. 125 岩崎 清隆(S18)「サンチャゴ巡礼雑感(後編)」

 ヤコブという人物
サンチャゴ巡礼は,巡礼と名がつくように,贖罪,感謝,祈願など宗教的感情の意味合いを含んだ行脚あるいは信心行といえる.その対象たる土地は,教祖や聖人・高僧が埋葬されていたり,そのゆかりの地であったりすることが多い.サンチャゴとはスペイン語で聖ヤコブ(Sant-Iago)を意味する.ヤコブはキリストの12使徒のひとりであるが,何しろ2000年も前のことである.この人物のプロフィールや足跡を語る資料があるはずもない.わたしがヤコブについて知る唯一の情報源は新約聖書であるが,その限られた記述からでも何となくその人物像が想像されるところがおもしろい.
 成人し,イエスが40日40夜の砂漠での断食の後,公に道を説き始めたのは,ふるさとガリラヤ周辺の村々からであった.ガリラヤ湖は,北部の高地からの渓流を集め,湖から溢れる出る清流はこの地を縦走・南下する峡谷を通って,120km先の死海に至る.それがヨルダン川である.日本のような水と緑あふれる国からパレスチナを訪れると,この地がなぜ”乳と蜜の流れ出る”土地と呼ばれるのかが不思議である.
しかしこの地を南から北へ遡ってみるとその理由がよくわかる.死海以南は礫砂と灼熱の太陽が支配する土地であるが,ヨルダン川を北上するにつれて徐々に緑が多くなる.その緑がもっとも濃くなるのがガリラヤ湖周辺というわけである.この湖は霞ヶ浦ほどの広さの淡水湖ではあるが,魚の種類も量も多い.当時の歴史家によると常時200艘前後の漁船が操業していたそうであるが,漁業を生業にしていたものも少なくなかったはずである.
 イエスの布教活動にその最初からつき従い,師亡き後は,その教団を組織した弟子の多くがガリラヤ出身で,しかもその3分の1が漁師であった.ヤコブも漁師であった.
マタイ伝は,そのヤコブとイエスの出会いを描いている.舟の中で網を繕っていたヤコブとその弟にイエスが声をかけたところ,彼らは父と舟をおいてすぐにイエスに従ったとある(マタイ4;21-22).漁業には,舟や網の手入れなど地道で具体的な用意周到さが日常的に求められると同時に,風や天候を読み,情報を総合的に判断する行動力も求められる.北の山から吹き降ろす突風は,湖面を瞬時に一変させ,舟を転覆させる危険もはらんでいる.それでいて獲れない時にはからっきし獲れない.
努力した分だけの報いが保障されないのが,自然相手の仕事である.こういう暮らしの中からは,ひとの思惑の中だけに生き,そのしがらみの中を泳ぎぬく知恵をつけるというよりは.できごとの中にものごとの本質的な読み取り,その読み取った真実の中に自らの位相を定め,行動を決するという現実的な生活態度が生まれやすい.
 同じく漁師あがりのシモンもイエスに,「一切を捨てて従った代価は何か」と問う場面がある.ヤコブ兄弟もイエスに将来自分たちを彼の左右の座に就けろといって他の弟子たちの顰蹙を買ったこともある.現実的で単純ではあるが,その師イエスはその腹蔵のなさを愛され,シモンとアンデレ,ヤコブとヨハネの兄弟を彼の受難が始まるゲッセマネの園にまで伴っている.使徒行伝によると,ヤコブは12人の中で最初に殉教した弟子と記されている.その殉教は洗者ヨハネを斬首したヘロデ王の息子による迫害の時のようなので,まだ30代の後半か40代の初めでその生涯を閉じたことになる.
ヤコブは志願してイエスの弟子になったわけではない.自分の人生を自分で選ぶというような器用なことができる男ではなかった.イエスが彼の中を駆け抜け,その信じることが生涯ゆらぐことはなかった.短くはあったが,その内なる声に誠心誠意応えることが彼の人生だったのである.
 そのヤコブがどうしてスペインの守護聖人になり,巡礼の対象になり,その巡礼が現代まで続くことになったのであろうか.
 
サンチャゴ伝説
 サンチャゴ巡礼のゴールは,大西洋に面したスペイン・ガリシア州にあるサンチャゴ・デ・コンポステーラ大聖堂である.この聖堂の建設が始まったのは11世紀であるが,ガリシア州のその地にヤコブの墓がそこで見つかったという言説が9世紀に存在し,それがサンチャゴ聖堂建設の発端になったらしいのである.10世紀には巡礼の最古の記録があるので,サンチャゴ巡礼は10世紀には既に始まっていたようである.
 イベリア半島は紀元前からローマ帝国の属州となっており,ローマ帝国のキリスト教公認は4世紀であるが,キリスト教は外国に居住するユダヤ人社会を通して広まっていったので,それ以前にこの地に伝わっていた可能性は十分考えられる.
 4~5世紀にかけては,欧州全体が中央アジア遊牧民の大移動に端を発するゲルマン諸族の移動があり,イベリア半島にもスカンジナビア半島をルーツのとするゴート族が入り,6世紀初頭にほぼ一世紀をかけて西ゴート王国が成立する.しかし8世紀初頭には,アフリカからイスラム勢力が北上し,10世紀初頭には北部の一部を除いてほぼ
全土が制圧されてしまう.このイスラム勢力に対してキリスト教国としての復権を期する抵抗運動が北部を拠点に起こり,イベリア半島での中世から近世と呼ばれる長い時代は,このキリスト教復権運動(レコンキスタ)というベクトルを持つことになる.
 信心行としてのサンチャゴ巡礼が生まれ,発展していった過程は,このレコンキスタの進行と同期している.12世紀後半まではキリスト教諸国とイスラムの勢力はほぼ互角である.宗教と政治が分離していない時代では,宗教の優位は国力・軍事力の優位によって現れると信じられていた.教権の座にあるものにとっても,どうしても互角の形勢を好転させる必要がある.世俗の権力者の封建領主にとっても,自己保身のために諸侯の共通の敵を作っておいたほうが有利である.キリスト教がその枠組みになり,ヤコブがその象徴となるのにはこういう背景があった.
 ヤコブはイエスの従兄弟とも言われている.キリスト教の聖典も組織もまだ固まっていない1世紀に,ペトロ捕縛の後,組織の中心であったヤコブがエルサレムを離れることは考えにくい.しかしそのヤコブがイスパニアの布教に従事したとなれば,ありがたさが更に増すことになる.ヤコブは「雷の子」とイエスにあだ名をつけられている,喜怒哀楽を隠しておけない性格なのであろう.しかし現実的で行動力があり,しかも信じることに一途で勇敢である.そういうヤコブにイスパニアの人もまた親愛の情を持ったのであろう.
  
                               
 プロフィール
岩崎清隆 (S18)
 
MPO法人 ぷねうま群馬 理事長
作業療法士
上智大学 文学部哲学科卒業(1971)
上智大学大学院哲学研究科終了(1973) 
アメリカ,ピュージェット・サウンド大学大学院作業療法学研究科 卒業(1985) 
国際医療福祉大学 保健医療学専攻博士課程 満期退学(2006)
希望の家療育病院リハ課勤務(1978-1993) 
群馬大学医学部保健学科(1993-2012)
 

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