2006年7月24日
八事にある名古屋でも有数の料亭「八勝館」は、みなさんご存知ですよね。
明治10年代に材木商が別荘として建てた屋敷は、住居の数室と山の上に離れの建物が建つ閑静なたたずまいであったようです。
当時の八事は、大池(現鶴舞公園)、八幡山など、名古屋の人々がお弁当をもって行楽に出かけた場所と言われています。大正11年名古屋の市電となる前身であ る「名古屋電気鉄道」が、京都市についで日本で2番目の電車を運行したのが、明治29年ですから当時の人々にとっては、景色のよい行楽地であったと思われ ます。
明治末には、「興正寺」のお茶屋「亭(ちん)」でもあり、新座敷として数室が増築され、旅館が営まれていました。料亭「八勝館」は大正14年、1万3千平方メートルの敷地に閑静な庭園を有して創業されました。
八勝館の名は、明治時代、雲照律師による禅語「八勝道」から由来し、又、別説にはここが丘陵地で八方に山々が眺められた景勝の地であったためとも伝えられています。
昭和26年名古屋国体が開催され、天皇皇后の御寝所として昭和25年建築された、「御幸の間」「残月の間」はモダニズム建築で著名な建築家堀口捨己氏により建築されました。
インドネシアの古代裂を貼り合せた襖は、当時としてはモダンなデザインです。
表千家の茶室「残月亭」を忠実に写したものとして有名であり、昭和26年木造の増築で数奇屋造りの建築としては異例ですが、日本建築学会賞に選ばれています。
「御幸の間」の観月台は、閑静な庭園と調和しており、都会の喧騒を忘れさせ安らぎを感じさせてくれます。
きれいに掃き清められた庭園の石畳を歩いた先にある、築400年の茅葺きの民家は、昭和2年に移築された田舎家。移築当時はそれほどでもなかったようですが、現在は人気のある離れとして好んで使われています。
また、芸術家でもあり美食家として知られる、北大路魯山人の器は廊下の棚にさりげなく飾られていました。魯山人との親交の深かったとの記事が7月号の「東海大人のウォーカー」に掲載されています。
6月半ばより、各部屋の障子は浅黄色の麻布の縁が色鮮やかな「有栖川すだれ」に取り替えられ、見た目にも涼しげな室礼となっています。
7月〜9月末までは、2〜3人以上のグループで、一人16,000円(税・サービス料込)のお料理も準備されています。
また、知る人ぞ知る「八勝館」食品部では完全予約制でテイクアウトのみですが、900円の中華弁当などが用意されています。
大広間には、テーブル席の披露宴の準備がされていました。最近では高齢の方でも正座がしづらくなり、テーブル席を要望される方が増えてきているようです。
インターネットで検索していたら、「八勝館」での結婚披露宴へ列席される若い人が楽しみにしているとのこと。若い人たちが、本格的な料亭の雰囲気を味わう機会が増え、日本文化に親しんでいただくことは大切なことと感じました。
S28 杉浦典男さんと女将の香代子夫人。
明治23年発行の「尾張名所図絵」にも掲載された伝統と、名古屋の財界人に支えられた歴史ある老舗料亭。
最近は、雑誌やテレビの取材が多くなったとのことでした。本物の「和」の文化を守っていただくことは大変なこととは思いますが、ますますご活躍されることを祈っております。
(文責:尾関)