2007/10 丸進青果株式会社 – Nanzan Tokiwakai Web
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タウンぶらぶら歩きTown BURABURA Walking

南山タウンに広告掲載されているお店や会社の訪問記

2007年10月24日

2007/10 丸進青果株式会社

今回は、南山常盤会の理事でもあります、S34回生の西脇正導さんが代表取締役社長を務めている会社、丸進青果(株)へ訪問させていただきました。丸進青果は、愛知県西春日井郡豊山町にある名古屋市中央卸売市場北部市場の中にあり、生鮮青果物の仲卸会社です。


北部市場の外観


市場のセリ売りの様子

「仲卸」とはあまりなじみがない言葉ですが、市場の中には卸売会社と仲卸会社があり、それぞれ役割分担しているようです。
卸売会社は、全国の生産地または世界の商社や産地から生鮮青果物を集め、仲卸会社はスーパー量販店や小売商からの注文を事前に集めています。その卸売会 社の集荷した物量と仲卸会社の注文の希望数量とを取引し、需要と供給のバランスによって、野菜や果物の値段が上がったり下がったりしています。ここでそれ ぞれの商品の相場が決まり、スーパーでの売値も変動して、私たちが「高いね」とか「安いね」などと感じて買い物をしているわけです。
丸進青果はその「仲卸」として、この市場流通を経てスーパーや八百屋さんへ野菜や果物を納入している会社です。


このマークの軽トラックに要注意!


40台以上ある軽トラ

生産地が台風などの被害を受けると、極端に品薄になり価格が暴騰することもありますが、逆に気候が良すぎると豊作になって、大暴落することもあるそうで す。昨日仕入れた商品が翌日に価格が大暴落した豊作時などは、短時間のうちに大量に売りさばく熟練した販売力が必要だそうです。
丸進青果は、そうした様々な場面に対応する為、市場に隣接した土地に大きな配送センターや倉庫、保冷庫をたくさん持っています。


早朝には大型トラックが並ぶセンター


売るほど?ある商品

そういう西脇さんにもう少し踏み込んで、先代社長でありますお父様より会社を継がれた頃から、現在に至るまでのエピソードを語っていただきました。

1987年、大学を卒業した西脇さんは、お父様の希望だった丸進青果の関連会社への就職を断わり、他社への斡旋も断って、一度は暮らしてみたいと思っていた東京へ就職口を探し、東京中央青果(株)(現在、シティ青果(株))への就職の道を選択されました。

東京の暮らしにも、会社にも慣れて丸3年が過ぎた1990年4月、突然実家から連絡が入ります。「お父さんが倒れた!すぐ帰ってきて!」。信じられない知らせですぐに名古屋に駆けつけてから3日後、お父様はくも膜下出血によって他界されました。
悲しむ間もなく東京の会社を退職して名古屋へ戻ると、当時の青果業界のドンと呼ばれる人から「若くても息子が社長になるべきだ」の言葉で、西脇さんは若 干26歳で突如社長となりました。その当時、お父様は、仲卸で日本一の売り上げを目標にしており、野菜の売り上げでそれが達成した矢先のこと。売り上げは 年商120億円、社員が120名、西脇さんは社員の中でも一番年下の年齢層だったそうです。

社長とはいうものの仲卸の営業の実績はなく、「営業がわからなくては社長は務まらない」と、まず配達員、そして販売者として商品を担当されました。菜花 やスイートコーンの販売から始まり、ホウレン草の販売者として4年間従事したのですが、「社長」という肩書きにも関わらず、最初はなかなか利益が上がらず 夜も眠れない日々が続きました。
しかしついにその突破口を見つけたのでした。それは、ご自分を「社長」とは思わず、お客様の為なら何でもやる、という言葉にすればシンプルな方法でした。その為には、利益を上げている優秀な販売者にそのノウハウを聞いてはまねをして学びました。

そうしているうち、若い社長が頑張っているぞ、ということで、お客さんも応援してくれました。また最初はお手並み拝見の態度だった社員も、西脇さんの担 当商品をご本人の知らないところでPRしてくれるようになり、みるみる注文が増えました。その結果、販売者30人のうち29位だった実績が7位まで上が り、役員から「営業卒業」の言葉を頂いたそうです。

その後、今度は人を育てられるかどうかにチャレンジされました。営業に不向きと言われていた社員を部下に付け、自分の担当品目を引き継がせ、一時は順位 が落ちたものの、およそ2年間で自分の実績よりも上位の5位になるまで育てあげる事が出来たそうです。そして就任して7年間を経てやっと本来の社長業に専 念することになったそうです。


求人やPRに使うパンフ類


事務所の様子(社員退社後)

それからの西脇さんは、社業のかたわら、さらにまだまだ未熟な自分を鍛え直す為に、某大手コンサルタント会社が企画する役員セミナーや専務セミナー、社長実践スクール、自己啓発セミナーなど、思いつくものは片っ端から受講されたそうです。

そしてすでに入会されていた社団法人名古屋青年会議所の活動にも、自分の能力が向上すれば会社の為になるんだ、との信念を持って熱を入れ始めます。いろ いろとお役を努められ、総務委員長として数え切れない程の会議の設営と進行を担当された経験は今も大きく役立っているそうです。
日本青年会議所へも役員として出向し、2002年39歳の時、名古屋青年会議所の理事長に、翌2003年40歳の時には愛知県下会員3000名を束ねる 愛知ブロック協議会の会長となって、愛知万博の成功に向けた活動に邁進し卒業されました。そのころの先輩や仲間との繋がりは大変深く、多くのブレーンなど 出来ましたが、特に今の西脇さんを育てられた先輩方へは、感謝の気持ちで一杯だそうです。

現在も西脇さんは、たくさんの公職を努められています。北部市場の仲卸会社29社が所属する名古屋北部青果第一仲卸協同組合の理事長、北部市場協会の副 会長、北部市場コンピュータ推進委員会の委員長、活性化委員会の副委員長、新たに発足した食育事業推進委員会の副委員長などです。また豊山町商工会の理事 や、その他協同組合の理事長ゆえに名古屋市行政から依頼されるお役もいくつかあるそうです。


社長室のドア(中は秘密・・)


実は書類に埋もれた社長室

丸進青果の社風はと聞けば、社訓も社是もなく、それぞれが個性を伸ばして持ち場のプロとなり、経営者意識を持って積極的に行動する、ということだけだとい うことです。社長として社員に伝えていることは、「お客様の為に」にとどまらず、「お客様の身に成り代わって、望むことを叶える会社になろう」という事だ そうです。
今年の2月で創立50周年を迎え、年商は180億円を達成し、今後は200億円を目標に、売り上げ日本一の仲卸としてさらに邁進したいと抱負を語っていただきました。

筆責・写真:尾関和成
(追伸)
西脇さんの趣味は、楽器のドラム演奏だそうです。1970〜90年代のロックバンドのコピーを中心に、学生時代の仲間とバンドを結成しているそうです。 本人曰く、腕前は「なかなかなもの」とのことです。今はTOTOというバンドのコピーをやっており、バンド名は「Dorothy(ドロシー)」、近々また ライヴハウスでの演奏を企画中とのこと。

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