2016年3月5日
もはや全国的な大人気となった名古屋飯の代表格、ご存じ「ひつまぶし」。この産みの親である「あつた蓬莱軒」さんを名古屋市熱田区にお訪ねしました。
「あつた蓬莱軒」の女将・鈴木詔子(のりこ)さんのお孫さん・松永幸也さん(S63)は、男子部から同志社大学を卒業されて、現在、大阪梅田の阪急デパートにお勤めですが、男子部では、夏の甲子園大会愛知予選で4回戦まで勝ち進み、惜しくも強豪東邦を相手に1点差で敗退した時の野球部に所属。中日ドラゴンズの元ピッチャー松永幸男さんを父にもつDNAで、高校3年の卒業まで部活動に励み、大学では、ラケットボールやバンド活動に熱中。入社式では新入社員代表で挨拶もされた文武両道の好青年。長身のイケメンとの評判です。
もう一人のお孫さん・松永百加さん(G61)は、女子部高2の時、宝塚音楽学校に入学。2015年の春、夢を叶えて「宝塚歌劇団」大劇場の初舞台を踏み、「草薙稀月(くさなぎ きづき)」の名前で「星組」男役デビューを果たしました。芸名は、伊勢神宮の勾玉・皇居の鏡と並ぶ三種の神器・熱田神宮に御鎮座する「草薙の剣「から名付けられました。
取材当日は、お二人のお母さまである熱子さん(詔子女将の長女・名古屋松坂屋あつた蓬莱軒の女将)と、熱子さんの弟で「あつた蓬莱軒」代表取締役社長の鈴木淑久さんに、「蓬莱軒」と深い関わりのある名古屋の歴史や、現在、熱田ゆかりの老舗店などで結成する「あつた宮宿会」が取り組む「あつた朔日市(ついたちいち)」について、お話を伺うことができました。数か月も前から、熱子さんが、取材の日程と場所を、「あつた朔日市」の開催に合わせて組んでくださっていました。
「あつた朔日市」 毎月1日 (10時から15時)
3月1日。熱田神宮の境内参道で、「あつた朔日市(ついたちいち)」が開かれていました。粉雪も舞う寒い朝でしたが、「あつた蓬莱軒」 「きよめ餅総本家」 「亀屋芳広」 「山本屋」 「妙香園」 「宮きしめん」・・名古屋を代表する熱田の名店が、おそろいのテントの下、おろそいの半てん姿で出店する屋台に人々の列ができていました。ブースは全23店舗。古くから伝わる、ひと月の始まりの日に、新しい月のご加護を願って神社に詣でる「朔日参り」の風習を、「熱田さん」でも蘇らせようとの試みです。
江戸時代、「東海道五十三次」の41番目の宿場として栄えた熱田は、熱田神宮の門前町として「宮宿」と呼ばれ、東海道随一の賑わいを見せたところです。宮宿から桑名へ渡る東海道唯一の海路「宮の渡し」には、船が往来し、朝夕には魚市場が立つ湊町でもありました。
そんなかつての熱田の賑わいを取り戻そうと結成された「あつた宮宿会」は、熱田神宮創祀1900年の平成25年、旧宿場町が持ち回りで開いていた市民団体のイベントで、「東海道シンポジウム宮宿大会」を担当した事が立ち上げのきっかけとなりました。熱田神宮をはじめ地元の市民団体・大学・文化人・行政が結集してイベントを盛り上げる中に、熱田の老舗の後継者たちも名を連ねていました。それまで、同じ熱田でお商売をしながらも、あまり顔を合わせることのなかった若旦那衆達から、「熱田を見直す良い機会になった。せっかくこうして面識ができたのだから、これからも、熱田の魅力を内外に広める活動を続けていこう」との声があがり、翌年、「あつた宮宿会」は発足しました。シンポジウムや「宮の浜市」マルシェの他、この4月からは、毎月の恒例行事として「あつた朔日市」が開催されます。
「 あつた宮宿会」会長 あつた蓬莱軒・鈴木淑久さん
「あつた芸能 広場」では「ヤマトタケルノミコト 草薙の剣物語」を紙芝居で披露。楽しみながら神話や熱田の歴史に触れることができます。
「山本屋」の味噌と「大矢蒲鉾」のかまぼこがコラボした「信長蒲鉾」は、桶狭間の戦いで、勝利を祈願して今川義元を討った信長が、お礼参りで熱田さんに奉納したとされる「信長塀」を意匠したもの。今も境内本殿の第3鳥居の傍に「信長塀」が残っています。
「あつた宮餅」 (お朔日餅)
TV局も取材に来ていました。新たな町おこしの催しは、瞬く間に、伊勢のおかげ横丁のように、名古屋の一大人気スポットとして、全国で脚光を浴びることになるでしょう。目下、名古屋の河村たかし市長からも「熱田をもっと活性化させないかんがゃ、やってちょう」と期待されているとか。尾張名古屋が誇る「由緒正しき底力」を、ぜひとも熱田から発信して欲しいと思います。
とりわけ、この日、長蛇の列ができていたのは、「朔日市」限定の「あつた宮餅」。「妙香園」の茶葉と「亀屋芳広」の餡を、「きよめ餅総本家」のきよめ餅の皮でくるみ、「あつた蓬莱軒」のタレをつけた宮餅は、4社が共同で50回以上の試作を重ね開発した「あつた朔日市」の目玉です。朝10時から整理券が配られて、あっというまに完売したもようです。
「あつた蓬莱軒」
明治6年、「あつた蓬莱軒」は、熱田の神戸の浜にあがる新鮮な魚を調理する割烹料亭として誕生しました。そこに「かしわと鰻」のメニューが加わったのは、海がしけ鮮魚が手に入らないことに備えてのことだったそうです。 その昔、熱田は、海に突き出た干潟にあり、船で近づく人々は、朱塗りの鳥居の熱田さんを、亀の背に乗る不老不死の仙人の棲む伝説の島と見て、蓬莱島と呼びました。 店名は、その「蓬莱伝説」に由来します。
創業から143年。この間には、昭和20年の名古屋大空襲による店舗の焼失や、戦後の食糧難など、時代ゆえのご苦労もありましたが、それらを乗り越えて、翌年に再建した「あつた蓬莱軒」本店は、戦国時代、信長が陣を張った地であったことから、「蓬莱陣屋」と名付けられました。
あつた蓬莱軒本店 「蓬莱陣屋」 熱田区神戸町
取材の日は、ウィ―クデイでしたが、お昼前には、黒山の人、人、人。180席ある本店では、遠くからお見えになるお客さまが、予約客で入れないことのないようにと、昼席の予約を受けない代わりに、長時間、お待たせしないため、また近隣への配慮から、訪れたお客さまに入店できる時間をお知らせする方式で、行列のできないシステム作りをされています。それでも、この人気ぶり。休日の混み様は容易に想像できますね。
「ひつまぶし」誕生
いまや、名古屋名物の代名詞ともなった「ひつまぶし」は、明治の終わり、出前で丼鉢を割ってしまうのに苦慮した二代目の鈴木甚三郎氏が、割れない木製の器、つまり、「櫃(ひつ)」を考案し、お櫃に細かく刻んだ鰻とご飯をまぶしたことから誕生しました。産地厳選の自慢の鰻の長焼きを細かく刻むことに、当初、抵抗も感じた甚三郎氏も、「ひつまぶし」人気の高まりに納得していったと、先代の名物女将・鈴木せき子さんが、ご著書『名古屋「ひつまぶし」繁盛記 100万粒の涙』で追憶しておられます。その中で、「ひつ」は、持った時の肌触りや重みが程よくて、硬くて丈夫な「トチの木」をくり抜いて作られていること。名古屋城も焼き尽くした空襲の焼夷弾が、明治末期から使われていた「ひつ」をも灰にしてしまったことに触れておられます。
一人前の櫃にはご飯が1合2勺。1本半の鰻の長焼きが入っています。
取材の最後に、蓬莱軒本店の御子柴(みこしば)店長のご案内で、本店厨房を見せていただきました。
備長炭が真っ赤に燃える焼き炉。5本の金串に打たれた4匹の鰻は、串から外される時に身が崩れないよう、串を回して焼かれます。炭の並べ方にも工夫がこらされ、職人さんの技と、炭の遠赤外線で旨みが引き出された鰻は、本店のみで一日1000匹が賞味されます。
先代女将が「家宝」と呼ぶ「テリ」は、140年間、注ぎ足し、注ぎ足し継承されている「タレ」のこと。「戦時中には疎開させて守り抜いた」秘伝中の秘伝。現在も、不測の天災に備えて、名古屋から離れた場所に保管してあるそうです。焼き手の職人さんにも、「テリの窯は撮らないでくださいね」と言われました。名古屋飯隆盛の源流「あつた蓬莱軒」のたゆまぬ努力と伝統を見た思いです。
熱田は、まだまだ知らない歴史が眠る地です。月の始まりの日に、熱田さんを詣で「あつた朔日市」を愉しみ蓬莱軒の鰻を味わう。そして、悠久の名古屋の歴史にじっくり触れる愉しみができました。
もちろん、宝塚歌劇団の星組公演にも足を運びたい。ヤマトタケルノミコトが草薙の剣で、草を薙ぎ倒したと記紀にあるように、舞台の上で華やかに舞い唄う草薙稀月さんの活躍を楽しみに応援したいと思います。
取材:堀江陽平 塩野崎佳子
参考:『名古屋「ひつまぶし」繁盛記100万粒の涙』鈴木せきこ著・NHK出版
あつた蓬莱軒本店(陣屋)
〒456-0043
名古屋市熱田区神戸町503
TEL 052-671-8686
営業時間 11:30から14:00 16:30から20:30
定休日 水曜日(祝日は営業)
URL http://houraiken.com