2016年7月28日
今池の交差点から環状線を北に行き、都通り2の信号を越えて2本目を右に入ると、静かな住宅街に、レンガで壁面が覆われた博物館風の立派な建物が目に入る。入り口に「本門佛立宗建国寺」とある。それがS50の石川佳樹(僧名・建信)さんのご実家のお寺です。
本門佛立宗(ほんもんぶつりゅうしゅう)建國寺 名古屋市千種区神田町
本門佛立宗(ほんもんぶつりゅうしゅう)は、江戸末期に、日扇聖人によって開かれた宗派で、ルーツは鎌倉時代の日蓮聖人の教えです。修行は「南無妙法蓮華経」。160年ほど前から、関西・関東に広がり、110年前に東海地方にも伝わった宗教です。信徒さんは、全国(日本以外ブラジル、イタリア、スリランカ、ハワイ、ロサンゼルス、韓国、フィリピン等含む)約35万人ほどで、この建國寺は、今年創立100周年を迎えます。ご住職はお父さまである第四世・石川日翠師。ご次男の佳樹さんは、僧名「建信」を名乗り、3つ上のお兄さまと共に、僧侶として、また「社会福祉法人清明福祉会」参与として建國寺でお勤めしておられます。
本門佛立宗 建國寺 石川建信(佳樹・S50)さん
御本尊のある御本堂にて
平成23年に建て替えられた建國寺はモダンな外観。ここがお寺?と思ってしまう、まるでホテルのよう。抹香臭さなど微塵もない。広いエントランス。自動ドアが内側から開いて、夏用の袈裟に身を包んだ佳樹さんに迎えられました。僧侶姿でも笑顔になると同窓生の親近感が漂ってきます。荘厳で清廉な屋内。磨き上げられた廊下。心地よい2階の談話室でお話を伺いました。
立派なお寺ですねぇ」と驚くと、「最初は、中区東新町のご信者さんの家を借り受けてスタートしました。昭和3年にこの神田町に移転すると、篤志もさることながら、瓦一枚、畳一畳、土地一坪と、信者さんの篤いご奉志の積み上げが実って御本堂が建てられました」
昭和3年 現在の地に建設中の建國寺
本門佛立宗とは?
『365日毎朝お寺の本堂で勤行(お祈り)』
「『自分一人の幸せに安住してはならない。人のために尽くしなさい』というのが根本にある戒律です。1年365日、毎朝6時半から8時半まで、欠かすことなく、この建國寺の御本堂では、勤行(ごんぎょう)というお勤めがあり、多い時には300人もの信徒さんが集まり、お題目を唱え、説法、お教えを聴いておられます。建國寺では、父である住職、兄と私の他、三人の僧侶がいますが、私も週に一度は説法をしています」
僧侶座(下の写真)より勤行をうける信徒席が格段に広く確保されている御本堂
『僧俗一体』
「次に大きな特徴としては、『僧俗一体の教え』があり、僧も信徒も一体となって信仰生活ができるという考え方に基づき、何か苦しみや悩みがあれば、すぐ信徒さんのところに駆けつけて話を聴き、相談にのります。僧侶と信徒さんの距離がとても近いです。また、ご自宅で御祈願や御回向(祖先供養)ができたり、ある信徒さんの自宅に集まって御題目を唱えて参詣ができたりというのもこの宗派の特徴です」
『地域密着』 戦時中にはこんなエピソードも
「この寺の近くにある千種公園一帯は、戦前に大きな兵器工場があったために、ひどい爆撃を受けまして、沢山の方がお亡くなりになりました。この時、おびただしい数のご遺体を、ねんごろに弔ったのが建國寺でした。今の時代になっても、地元の人々から、大変感謝をされて、毎年8月に行われる慰霊祭は、地元の組合と建國寺が行わせていただいております。公園内には、爆撃の爪跡を標す「弾痕碑」が残っていますが、その碑の前に祭壇を設け、平和への記念と亡くなった方の霊を慰める供養が許されているのは、建國寺だけなのです」
「今でも、信徒さんはもとより、地域住民の方々に協力を呼びかけ、献血活動など社会貢献事業などを行っています」
『弱者救済』・・悩みや心配事あれば駆けつける
「信徒さんの苦悩や心配事には出かけて行き相談にのるのも大事なお勤めのひとつです。『四苦八苦』とは、生老病死に関わる苦悩のことですが、今は、 子育て・いじめ・仕事・人間関係・・さまざまな不安や悩みを抱えて生きる時代です。たとえば、ある飲食店を営まれている方は、生き物の命を奪って商うことへの苦悩を吐露されて毎朝の勤行に励まれています。老若男女に関わらず、人はその人なりの人生の教えを求めているのです。
年に3回の大きな法要がある。今年7月24日は建國寺創立100周年大法要が市の公会堂で営まれた
お寺の次男坊ーヤンチャな男子部時代ー寺に寄宿の大学時代ー修業中に天職と見つけたり!
「男子部卒業後は、浪人して九州の大学に進みました。4年間、母の実家である博多のお寺に寄宿しながら通学しました。母の兄が住職を務める同系のお寺で、5時に起きて、勉強より、サークル活動より、何よりも、お勤めが大事という生活でした。しかし、初めから、お坊さんになりたいという強い想いがあったわけではなく、徐々に、それが確かものになっていったのは、修行中、お寺で預かる『うつ病』の信徒さんたちが、心を鍛えることで『うつ』状態が改善されて、社会に戻っていかれる姿を目の当たりにしてからです」
「伯父である住職のススメで、『寺に入る前に世の中の人の気持ちを知って来なさい』と、博多の金融関連会社で、一年間、サラリーマンを経験しました。その時、『お寺に来られる人たちは、ある意味、純粋な人たち。この人たちの中で、心を鍛えることのできる仕事とは、良いお勤めだ』と思えるようになりました。サラリーマン時代、社会に出る中で、『僧職が自分の勤めだ』と気づいたのです。『お坊さんになろう。お坊さんをやろう!』と強く思いました。その後、博多のお寺で出家して、京都のご本山(宥清寺)で2年間の修行を積み、27歳の時、この建國寺に帰ってきました」
建國寺三世住職 石川清明師 (佳樹さんのお祖父さま)も男子部卒(M03)
談話室の隣室には、歴代住職の写真が飾られています。佛立宗開祖の日扇聖人さまを筆頭(左端)に、いずれも威厳に満ちたお上人さまのお顔です。
右端には、第三世住職の石川清明師(常修院日建上人)がおられます。現住職のお父上で、佳樹さんからはお祖父さまに当たる方ですが、なんと驚いたことに、この清明師も南山男子部のご出身でした。
清明師の回期はM03。南山学園創立者ライネルス師の時代。ご卒業は昭和14年です。
清明師はご存命中、これから来る高齢化の問題を予期して、老人ホームの建設・地域貢献による社会活動を発案されます。それが現在の「社会福祉法人 清明福祉会 建国ビハーラ・てんまん」に結実し、現在も推進し続けています。
佳樹さん4歳の時に他界されたお祖父さまから、直接、当時の南山のことを聞くことは無かったものの、佳樹さんはご自身の経験から、次のように言及されました。
「キリスト教と仏教。南山には各々の信仰を尊重する空気がありました。先生方は、私の実家のことを理解してくださって、宗教の授業にこそ出席しましたが、朝のお祈りを強要されたことは一度もなく、6年間一度も十字をきったことはありません。それが、南山のおおらかさであり、良さだと思います」
「クリスマスのミサで南山教会に行くと、女子部と合同だったので、それはそれで楽しみでしたが・・(笑)」
男子部卒業アルバムには「ロン毛」「ピアス」で!
男子部では、S50の佳樹さんの在学中に制服が廃止になりました。卒業アルバムの佳樹さんは、私服に、なんと長髪!・・いわゆるロン毛にピアス・・今の剃髪姿からは、皆目、想像がつきません。6年間、続けたというバレー部の集合写真にはその姿がありません! 「男子部時代は、『それなりの生徒』でした(笑)。堤正文先生には出席簿でよくたたかれました。(出席簿の)角度が縦に入るんで、けっこう痛いんですが、『痛みが教え』だったと思います」
たくさんの資料やアルバムを準備して対応くださる誠実なお人柄
「そういえば、数年前のある時、建國寺では、本堂内陣の金箔を張り替えたたのですが、なんと職人さんが同期生で驚きました。『なんで、お前がいるの?』って(笑)。 『からかみ屋 柏彌紙店』の未来の八代目・尾関良祐くんだったんですけどね(笑)」
「南山って、一学年200人の生徒が、6年の濃密な時間を共に過ごして、頭のイイやつもそうじゃないのも、みんな、ゴッチャになって卒業する。今、久しぶりに会っても、昨日、会ったかのような気になれる。スゴイと思いますね」
昔も今も修行と勤行の日々・・これからは「社会活動にも重きをおいて社会に寄与したい」
「子どもの頃から、御本堂での勤行を聴きながら育ちました。暮れも元旦もそうでした。僧侶になった今は、建國寺の向かいにある僧侶宿舎で、妻と息子と住んでいますが、修行と勤行の日々に変わりはありません。今後は、僧侶の活動を中心としながら、建國寺が母体の『社会福祉法人 清明福祉会』が行う社会活動にも重きを置いて、社会に寄与できる僧になりたいと願っています」
建國寺の納骨堂には第一世・日進上人も眠っておられます
僧職を天職と覚られた佳樹さん。信徒さんや地域住民の心の平和のために、ますます精進されますことを願っております。
取材:堀江・塩野崎