2019年7月31日
■女子部中学3年生
敗戦から10年後の1955年(昭和30年)の4月1日に南山女子部に赴任し
た。大學出のホヤホヤだった。教師生活1年目は、中学3年生と高校の大部分
のクラスを受け持った。大部分といっても、各学年2クラスというこじんまり
した学校だったから、ほとんどすべての生徒を教えることになったのである。
どのクラスにもそれぞれ思い出があるが、最初に担当した中学3年生(6回
生)は、いわばモサぞろいだった。このクラスが高校2年生になった時に修学
旅行で一緒に九州に出かけた。瀬戸内海を見て「地中海」と叫んだ生徒がい
た。知的に優秀だった彼女たちは個性的でもあった。優等生というイメージと
は無縁だった。記憶の中の彼女たちは学校教育が与えるチンケな知識なんぞ求
めてはいなかったのだ。
アメリカンフィールドサーヴィスという高校生対象のアメリカ留学制度の女
子部の第1号がこの学年から出た。7回生から1人。8回生からは2人の留
学生が出た。6回生の中の1人はその後ドイツ人と結婚した。中には卒業後パリ
に留学してデザイナーになった生徒もいた。芸術志向の生徒たちのことが記憶
にあるが、これから先の人生をどう生きるか興味津々で新米教師のぼくの授業
を聴いてくれたのだった。
卒業したての新米教師のぼくにできることはしれていた。南山大学での3年
間、ゼミなどでひたすら手厳しく鍛えてくれた野崎勝太郎大先生の、一語もお
ろそかにしない精読(close reading)方式を受け継いで、それを実践しただけ
だった。使った教科書は連載(1)で触れた福原麟太郎さんが中心となって作
成したGlobe Readerだった。
Globe Readerは福原哲学を中学レベルで実践したもので当時使われていた
中学校用の検定教科書の中で、そのレベルの高さは群を抜いていた。対話形式
の素材が並ぶ今日の教科書とは似て非なるものだった。福原さんは、中身を問
題にしない会話教育など眼中になかった。主眼はあくまで読解力をつけること
だった。それと文章を通してイギリス文化の神髄の一端に触れることだった。
たとえば、Politeness(思いやり、配慮) というタイトルの課があった。ジ
ェントルマンを「決して苦痛を与えない人」と定義したのは、19世紀イギリス
の神学者ジョン・ヘンリー・ニューマン(John Henry Newman, 1801~
1890)の名著『大学の理念』(An Idea of University)だが、編者の福原さん
の頭にはこの定義があったのだろう。その課は「思いやりや配慮」が社会生活
でいかに大切かを説いたものだ。挨拶もロクにしなくなった今日の無礼な世相
を考えると、道徳の時間に徳目を並べるよりもこうした教材を通して、社会生
活のあり方を深く考えさせる方が人間教育としてはよほど大事だ。
このような教科書を選んだのは当時の中学の英語科の中心だった久光照先生
だったと思う。Globe Readers を教科書として選んだのは一つの見識だった。
当時の女子部の生徒たちのハイレベルの英語力の基礎中の基礎を、作り上げる
のに最大の貢献をしたのが久光先生だった。
■英語力の基礎をつくった久光照先生
ぼくが久光先生を知ったのは、中学で3年生を教えることになって、中学校
に1週に何回も出かけるようになってからだ。教え始めて気が付いたことは生
徒たちの発音がほとんど訂正する必要がないほど正確だったことだ。一方、あ
の難しい教科書の本文を読みこなす彼女たちの力を内心高く評価していた。こ
うした彼女たちの英語力の依ってきたるところは、どうやら久光先生の教育に
あるのではと思うようになった。
久光先生の当時の教え子の一人で常盤会の現副会長の塩野崎佳子
(20回生)さんは、小生宛てのメールに次のように書いている――、「久光先生
には、中学1年か2年の時の英語を教えていただきました。Jack & Bettyで、綺麗な
発音を厳しく叩き込まれました! 敬愛する恩師です。ハンカチーフをマイク
ロフォンにお当てになって、穏やかながら毅然と(ある意味、容赦なく)、英語
というものを教えてくださいました。ひとつの単語を発音するよう、順番に
指されるのですが、発音が悪いと、間髪入れずに、Next!と、後ろの人が
指されて、前の人は立たされたまま。長蛇の立たされ坊主ができてゆきました。
その緊張感とともに、久光先生のような発音をしたいと、必死にリピートした
楽しかった当時が蘇ります」。
これを読むと先生の授業風景が想像できる。こうした厳しさは当時としては当たり前
だったろうが、それでもいつもはあの穏やかな久光先生の決して節を曲げない芯の強
さはいったいどこからくるのかと、ぼくは想像した。その一つは、満6歳で政府の留学
生としてアメリカに留学させられて、およそ10年間彼の地で生活を送った津田梅子
(1864~1929) が、後年創立した津田塾の厳しい教育にその根があったのではと推
測する。このことをどうして直接伺わなかったかと悔やまれてならない。
先生は三重県の菰野(こもの)から通勤していた。伊勢湾台風(1959[昭和34]年)で
通勤がままならなくなって同僚の家にしばらくの間居候をしていた。苦しい時期だった
と思う。しかし、精神的にもっとつらかったのは、指導部長という要職に就かれたこと
ではなかったか。先生の本領はあくまでも教室にあったと思うからである。必ずしも得
意な領域ではなかったと思われる、指導部長という任にたえながら、スピーカーを担
いで (当時のスピーカーのデカさはスマホ族には想像できないだろうが) 教室に向
かう姿を垣間見ながら、運命とはいえ胸中を察して胸にこみ上げるものがあったこと
を思い出す。
[追記](1)久光先生の南山中学での在任期間は、[専任として]1949(昭和24)年
~1966(昭和41)年、[講師として]1966(昭和41)年~1972(昭和47)年。(2)日本におけ
る英語教育の祖ともいえる福原麟太郎さんが、太平洋戦争が始まった1941(昭和
16)年12月8日に何を考えていたのか、その年の12月を含めその前後に発行された
「英語青年」(研究社)に連載中のコラム「英学時評」を、今回改めて調べてみたが、戦
争については一言も発していない。それは彼流の抵抗だったのか。ぼくには沈黙が戦争協力の証だったと思える。
ホロコーストの生き残りで、戦後世界各地に逃亡していたナチの蛮行関係者(100
人以上)を逮捕するのに貢献したサイモン・ヴィーゼンタール(Simon Wiesenthal,1908
~2006)は次のようなことばを残している――、For evil to flourish, it only requires
good men to do nothing. (悪が栄えるのは簡単だ、普通の人たちが何もしないでい
ればよい)。(“Nazis Killed her Father; She Fell in Love With One” , New York
Times International Weekly, June 23, 2019)今日の状況を考えると、ヴィー
ゼンタールの「普通の人の不作為」という概念がやけに現実感をもって迫ってく
る。なお、New York Times Inter-national Weeklyは朝日新聞販売店で手に入る。
*次回「記憶の中の南山の教育 (3)」は、こちら
プロフィール 中村敬先生
南山中・高(英語)の在職期間…昭和30年4月~昭和41年3月
1932年豊橋市生まれ
南山大学英語学英文学科卒業
英国政府奨学生(British Council Scholar)としてロンドン大学留学
主な著書:『イギリスのうた』(研究社)、『私説英語教育論』(研究社)、
『英語はどんな言語か』(三省堂)、『なぜ、「英語」が問題なのか?』
(三元社)、『幻の英語教材』(共著、三元社)、
『英語教育神話の解体』(共著、三元社)など
検定教科書の代表著者:中学校英語教科書The New Crown English Series(三省堂、
1978~1993)、高等学校英語教科書The First English Series(三省堂、1988~1995)