2019年9月29日
[英語の授業の中の社会問題]
どんな外国語でもその習得の初歩の段階はチーチーパッパである。これは避
けられない。しかし、高校生になってその段階を卒業しても、使用する教材によ
っては学習者に本気で向き合ってもらいたい日本や世界が直面する社会問題と
は無縁な生活を送ることになる。検定教科書の題材に幻滅していたぼくは、方法
として教科書から離れてその時のぼくにとってもっとも関心の高い社会問題を
英語の時間を潰して伝えることだった。それが可能だったのは英語の時間数に
余裕があったからである。多分全体として週6時間は確保されていたのでは
ないか。
対象が女子部の高1だったのは偶然ではない。すでに南山にも受験教育の波
が押し寄せていたが、高1はその影響をもろに受ける段階ではなかったからだ。
しかし、時間数もさることながら、このような授業を可能にするほど時代に余裕
があったということだ。また、当時の南山中学・高校が、そのようなリベラルな
教育を許容していたということだ。教員としてまことに幸せだったというほか
ない。
一番記憶に残っているのは1949年発生の松川事件をめぐる授業だ。松川事件
は敗戦後の混乱期に次々と発生した事件の中の象徴的なできごとの一つだが、
その事件とともに三鷹駅での無人列車の暴走事件として記憶される三鷹事件、
下山貞則国鉄総裁(当時)の轢死事件など忘れることができない。が、いずれも
犯人が不明のまま今日に至っている。
この事件の背後には、1949年に行われた総選挙でそれまで4議席だったのを
35議席とした共産党の躍進に、危機感を抱いた占領軍がいたとされる。しかし、
占領軍だけではあれほどの事件を起こすのは不可能だったのではないか。可能
性は、日本政府と占領軍の連係プレイ、その他、左翼系の台頭に危機感を抱いて
いた団体。しかし、今となっては、真相は永遠に不明だろう。
[松川事件を授業に持ち込んで]
事件は、東北本線松川駅の近くで何者かの工作で、「レールのツギメ板がはず
され枕木の犬釘が抜かれ、長さ25米、重さ九百二十五瓩(キログラム、中村注)
もある一本のレールは、線路から十三米も離れたところまで飛んだものか、なん
の破損もなく真直ぐの形のまま、あたかも搬ばれてそこに置かれたように地面
の上に横たわっていた(松本清張『日本の黒い霧』、website)」。1本のレールが
はずされて、線路から離れたところに置いてあったなど、誰が考えても複数の人
物の仕業だと思うだろう。
この事件で機関助士3名が死亡、機関士と乗客3名が負傷した。労組関係者
および共産党員など20名が逮捕され、起訴された。最年少は当時18歳の赤間
勝美氏だった。1審(地裁)2審(高裁)で死刑、最高裁で逆転無罪(1963)と
なる。どうしてこんな真逆の結論が出たのか。一つは、作家の広津和郎氏(1891
[明治24]年~1968[昭和43]年)が雑誌『中央公論』に「松川裁判」を連載
し、1審2審の判決文の矛盾点を徹底的に批判したことだった。それは後に、中
央公論社から『松川裁判』として出版された。時に1958(昭和33)年のことで、
ぼくが南山女子部の教員になってから3年後のことである。それは、8回生が高
1になった年でもあった。
ぼくは広津氏の『松川裁判』が出版されるといちはやく一読した。そして、
これこそ生徒たちに伝えたいと思った。最終的には無罪になったとはいえ、地裁
と高裁で死刑の判決が下された事件だ。状況証拠と明らかに矛盾する判決文の
カラクリを、冷静な眼で論理的に示した広津氏の文章の切れ味を生徒に伝えた
かった。1時間では足らなくて翌週更に1時間続けたと記憶する。今日なら、感
想文を書いてもらうところだろう。また、アクティヴラーニング(active learning)
と称してクラスをいくつものグループに分けて、生徒に議論させる授業をやる
ところだ。当時のぼくはひたすら一方的に伝えたいことを伝えただけだった。教
育学者の林竹二氏のように“授業を組織する”(注)だけの知識も経験もなく、
ひたすら若さ任せの授業だった。相当の見当違いをしていただろう。生徒には迷
惑だった可能性がある。まことにいい気なものだが、「わが青春の南山」だった。
(注)林竹二『授業の成立』1983年、筑摩書房。『林竹二著作集』(全10巻)の
中の第7巻。
[なぜ、そんな授業を]
なぜ英語の授業を潰してまでそんな授業をしたのか。英語の授業数が多けれ
ばそれだけ英語教育に時間をかけるべきではないのか。さらに、社会問題は社会
科のテーマであって英語科の領域を逸脱している。当時こうした批判があった
とは聞いていない。今日ぼくが予測する批判である。さて、実際にはどう考えて
いたのか。
(1) 日本語力と英語力のギャップ。チーチーパッパのレベルをどうして
も通過しなければならないとして、学習する英語とそれを習得する学習者の母
語(日本では、多くの場合、日本語)のレベルの間のギャップは埋めようがない。
母語で考えを表現できる内容とチーチーパッパのレベルの英語で表現できる内
容には通常埋めがたいギャップが存在する。そのギャップを埋める方法の一つ
は、ハイレベルの内容の議論は学習者の母語で行うことである。英語の学習はそ
の母語によるレベルに追いつくための練習期間であって、通常英語が日本語の
代替えにはならない。しかし、たとえば、親の海外勤務に伴い海外生活を経験す
る子供の英語力の母語に追いつく速度は、日本で英語を学習する大部分の日本
の学習者よりもはるかに速い。ここから英語がこの国で持っている特権性と差
別性を考えることができるが、本稿ではそこまで触れる余裕はない。
(2) 批評力・批判力の獲得。昔からよくいわれたことの一つは、英語の専
門家の非政治性である。ヘイトスピーチ並みの批判となると、「英語をやってる
奴は、バカ」であった。つまり、英語の習得に全精力を使うことになって英語以
外の分野に関心を持つ余裕がなくなる。その結果、日本人全体を巻き込む戦争を、
斜に構えてやり過ごそうとした“腰抜け”(中野好夫)の英語関係者が多数生ま
れた。そうならないためにはどうするか。批評力・批判力をつける以外にない。
この考え方は今日も変わらない。(了)
[訂正]卒業生(G7)の一人からAFS(アメリカ留学生制度)に関する質問が
届きました。(1)AFSの初代の留学生は(G5の)山口節子さんではないかとい
う質問です。その通りです。あれだけ深くかかわった教え子のことを失念するな
んて、謝って済む話ではない。小生の頭も相当ヨレヨレ、ボロボロですね。節ち
ゃんゴメンナサイ。(2)「6回生の中の一人はその後ドイツ人と結婚したとあり
ますが、その方はAFS留学生ではなかったと思いますが」という質問です。そ
の後ドイツ人と結婚された方はG8のAFSの留学生です。そのような認識で原稿を書きました。
ところが、小生のPCの技術が未熟で、そのために発生したPCの不具合に翻弄さ
れて、最終的に誤解を生むような情報を伝えることになりました。大変失礼しました。
それにしても、書き手の意思とは無関係に文章を動かしてしまう現代技術にはお手上
げです。今後はその点について特に慎重に対処するつもりです。
*次回「記憶の中の南山の教育 (4)」は、こちら
プロフィール 中村敬先生
南山中・高(英語)の在職期間…昭和30年4月~昭和41年3月
1932年豊橋市生まれ
南山大学英語学英文学科卒業
英国政府奨学生(British Council Scholar)としてロンドン大学留学
主な著書:『イギリスのうた』(研究社)、『私説英語教育論』(研究社)、
『英語はどんな言語か』(三省堂)、『なぜ、「英語」が問題なのか?』
(三元社)、『幻の英語教材』(共著、三元社)、
『英語教育神話の解体』(共著、三元社)など
検定教科書の代表著者:中学校英語教科書The New Crown English Series(三省堂、
1978~1993)、高等学校英語教科書The First English Series(三省堂、1988~1995)