2021年11月25日
我々S19の卒業生にとって今年2021年は南山中学入学60周年にあたります。その記念に思い出の文集を作ることになりました。14名の卒業生が文を寄せましたが、加えて恩師の中村敬先生に思い出を書いていただいたのはうれしいことでした。先生のお元気な様子に我々卒業生も元気づけられました。文集は「back to 1961」の題で9月に発行し数十名の仲間うちに配布しました。
私は中学時代からの友人で、後に南山中学・高校の英語教師になった伊藤公二君の思い出を書きました。伊藤公二君(先生)は残念ながら3年前に亡くなりました。奥様もその前に亡くされており、娘さんがおられるのですが、連絡のしようがありません。
文集も届けたいしお参りもしたいと思っています。連絡先をご存じの方があれば常盤会まで教えていただければありがたいです。
以下に「伊藤公二君の思い出」を転載します。
久々に南山教会を訪ねてみた。桜の蕾が膨らみかけた三月半ばのことである。中学高校の校舎は建て替えられて面影がないが、教会だけは昔のままである。丸いドームのような姿は近づくほどに懐かしかった。教会にあった小冊子によると1958年3月に完成とある。我々が南山中学に入学した3年前だ。教会に入るとコロナのせいもあるのか、誰もいなかったが、ステンドグラスの赤、青、緑の光が差し込んで厳粛な気持ちになった。どこかでオルガンの音が聞こえた。ミサのこと、朝のお祈り、聖歌などが思い出された。
そんな中でひとりの友の顔が浮かんだ。若いままの伊藤公二君である。公二とは中学一年の時同じクラスになり、高校までずっと一緒だった。大学は別だったがふたりとも東京へ行った。卒業後、彼は母校南山の英語教師になった。私の息子が南山に入り彼に教えてもらった時「お前の息子を教えることになるとは思わんかった」と言って笑った。英語のことは何でも知っている博士のような人だったと生徒たちは言っていたそうである。
卒業後それほど多く会ったわけではないが、たまに電話で話すと何を考えているか、お互いにすぐ解った。彼の電話は昔から用件以外はほとんど話さない簡潔なものだったが、声を聞くといつも懐かしく、穏やかな気持ちになれるのだった。最近はたまの同窓会で会うぐらいだったが、笑顔のやさしい白髪の紳士になっていた。その公二君は三年前に逝ってしまった。いつも来る年賀状が来ないので、おかしいなと思っていたら正月明けに訃報が届いた。体調を崩し前年の10月ごろから入院していたと知った。
彼とはふたりで映画を見に行った忘れられない思い出がある。「青きドナウ」である。二人とも学生服で校章を付けていたと想う。うっすらとしか覚えていなかったが彼が亡くなってからネットで調べてみた。青きドナウは1963年に日本で上映されたとある。そうだ、我々が15歳、中三の時である。58年前だ。ネットによればこの映画には根強いファンも居るのだが、いまだDVD化されていないとある。だがいくつかのカット写真を見ているうちに、芋づる式に記憶がよみがえっていった。
彼は言った。青きドナウはすでに3回見たが、ぜひもう1回見たい。2本立てのもう一本のピーターパンは見あきたので、ひとりで行くのはつらい、一緒に行かないかと私を誘ったのだった。自分が感動した映画を私にも見せたかったのだろう。青きドナウはウイーン少年合唱団の物語だった。生徒たちの学校生活と友情、先生との交流、演奏旅行などを描いたもので、懐かしいヨハン・シュトラウスの旋律までしだいに思いだした。
今思えば公二君は当時すでに教師になることを決めていたのではないだろうか。将来について深く考えていなかった私と違い、自分の進むべき道を心に秘め、そのこころざし通りに一生を生きたのではないか。同窓会のとき一度ゆっくり話したいなと言い合ったが、果たせぬままになってしまった。
*伊藤公二先生
男子部奉職期間:1971年4月1日~2009年3月31日
教 頭:2003年4月1日~2006年3月31日
副校長:2006年4月1日~2009年3月31日
加藤武朗 略歴
1967年 南山高校卒業
1971年 早稲田大学商学部卒業
(株)山加商店入社
1975年 山加商店米国法人インターナショナルチャイナ入社
ニューヨークにて5年間勤務
2011年 山加商店社長就任
2018年 山加商店会長就任
趣味
釣り、将棋、登山、旅行
短歌 2010年歌集「源流」上梓