2014年4月25日
私は幼少の頃から絵を描く事が好きで、二才の頃描いたと言う絵が大切に取って
在ったが戦災で焼けてしまった。小学一年から画家について絵を習ったが戦争で止めて
しまい、戦災で焼け出された私は幸にも助かった家族と共に田舎へ疎開して不便な
生活を強いられ、戦後も疎開先に永住した。
高校一年の時に四日市に南山第二高校が新設され新一年生を募集との広告を見た私は
両親に今の儘では中学の時から目指してきた医学部進学の自信が無い、大学受験の時に
浪人したと思って、南山へ転校して勉強し直したいと両親を説得した。しかし担任が
「馬鹿な事をするな、君なら後二年真剣に頑張れば大丈夫」と言って修了証書を出して
呉れなかった。其の教師の説得に三日を要し、受験〆切に間に合って受験し、無事、
南山第二高校(*欄外参照)へ入学した。
両親が医者でも無いのに何故私が医者を目指したか、それは両親には夫々の兄弟
姉妹に医者がいて戦後の貧困期に其の叔父や叔母から「医者は如何なる時代でも
失業する事無く生きて行ける。だから正一も医者に成れ」と言われていたからで、
何が何でも医者に成ってやると決心して南山に入学した筈なのに、私を脇道へ誘惑
しようとする運命の悪戯が待っていた。それは美術の有名な先生で私の画才を認めて、
絵の基礎的技法を全て教えて貰える事に成り日曜毎に先生のアトリエへ通い始めた。
戦争で忘れていた絵に対する情熱が再燃し、それが無意識の内に受験勉強が苦痛に
成り始めていて勉強からの逃避の手段と成っていた。
そんな私を見抜いた名大医学部の学生で旧制中学時代の先輩が私に言った。「絵は
何時だってやれる。医者に成ってから趣味でやれば良い」と。その後二年から名古屋の
南山高校に転校し、其の先輩に医学部受験のコツを教わっていたが、日曜毎のアトリエ
通いは止めなかった。
大学受験が近づくに従って自信は薄らいで行き、その結果生ずる苛立ちを抑える
手段として絵を描いていた。自信喪失状態にあった自分に受験を決心させたのは、当時
行われていた共通一次試験の結果が好成績だった為で、しかし逃避行が学力の低下を
招き公立は無理、私立なら何とかとの事であった。
医学部に進学できた私は医学に興味を抱き講義以外にも学生時代から大学病院の
医局に出入して先輩の医師達から病気の知識を得て成績は同級生の中で上位を占め、
学生会活動にも積極的に参加し、学生会に美術部の無い事を知ると、直ちに美術同好会
の設立を申請、同好の士を募って活動を開始、一年後にその実績を認めさせ、自分が
主将に成って、森鴎外の甥で絵の上手な生化学の岸教授に部長に成って貰い正式に
美術部が発足した。今も美術部は存続して私が今尚OB会の会長を努めている。
ストレートで医学部も医師国家試験もパスし、大学院では薬理学を修得して学位を
取った私は外科に入局した。外科の教授は「君は薬理学を修得したのだから麻酔を
担当して呉れ」と言われ麻酔班の一員に成った。当時麻酔は外科に従属した学問で
独立した講座ではなかったが、私が麻酔を始めた頃に日本では東大、東北大、京大、
阪大で麻酔学講座が次々と開設され始めていた。一年経って吾母校にも麻酔学講座が
開設される事に成り、初代教授に東大の助教授だった稲田豊先生が、初代助教授に
順天堂大麻酔班から先輩の高橋敬蔵先生が、そして私が初代講師に成り麻酔学教室が
発足した。
その後私は昭和45年に愛知県がんセンターの院長今永一先生の招聘を受けて就任、
ここで私は休日も昼夜も無い程の過酷な25年の部長時代を過ごしたが、全て家族の
協力と犠牲のお陰であった。退職後直ぐに豊橋の老健から副施設長として誘いが有り、
今も勤務している。麻酔医は赤ん坊から老人まで全科の患者に麻酔をする可能性が
ある。だから全ての病気に通暁しておく必要がある。従って麻酔医は麻酔を止めても
潰しが効く。そんな訳で老人保健施設にも勤められた。
絵は趣味が高じて今では全国公募展ローマン派美術協会の理事と中部支部長をして
いるが、絵は常に医師として生じる精神的肉体的ストレスの解消に役立ててきた。描く
絵の目的は「絵を見る人の心の癒し」である。
最後に傘寿に成って自分の歩んできた人生を振り返る時、これまでに成れたのは全て
神の導きに依るものだとそんな気がするのだ。
川澄 正一 (S5 )プロフィール
1933年 三重県桑名市生まれ
南山高等学校男子部卒業
昭和医科大学(現・昭和大学)医学部卒業
同大学院にて薬理学の学位を修得
同大学医学部麻酔学教室講師、愛知県がんセンター麻酔科部長を経て、
豊橋市の老人保健施設明陽苑 副施設長
美術文化協会に所属していたが退会
現在は、公募展ローマン派美術協会 理事兼中部支部長
*南山第二高校について
「南山学園の歩み」(1964年刊) 年表より抜粋
1950 (昭和25年) 3・14 南山大学付属南山第二高等学校の設置を三重県知事認可
設置者:財団法人海星学園。
1951 (昭和26年) 3・14 南山第二高等学校は学校法人南山学園の設置するところとなる
1952 (昭和27年) 5・10 学校法人長崎東陵学園と南山学園と合併
長崎東陵高等学校・中学校は長崎南山高等学校・中学校と改名
〃 9・26 南山大学付属南山第二高等学校は南山大学付属四日市南山高校と改名
1955 (昭和30年) 2・15 学校法人長崎南山学園新設(学校法人南山学園から分離)
〃 3・12 南山第二高等学校の経営をエスコラピオス修道会に移譲
3・18 学校法人エスコラピオス学園新設
校名は海星高等学校