2015年3月30日
私は南山の中・高から南山大学を卒業し、岡山のノートルダム清心の中・高に3年務め、2年ばかり、名大や愛教大や県大、南大などに研究生や聴講生で通った後、南山の女子部に就職しました。そして、1979年から3年間、ブラジルへの政府派遣教員として、サンパウロ日本人学校で働きました。その間、南山の方は休職扱いをしてもらいました。帰国後、再度ブラジルを訪れたかったのですが、とてもそんな時間はありませんでした。
そして、60歳を過ぎたあたりから、定年後は体の動く限りボランティアをと考えていましたので、退職後、やっと時間が出来た時、女子部で長年クリスマス献金などの中から支援してきたブラジルの「憩の園」へ行くことを決めました。ところがこの老人ホームへボランティアをしに行くには、教員免許だけでは無理なので、介護士の資格を取りに行きました。300時間の講習は大変辛く大変でしたが、何とか介護士とガイドヘルパーの資格を取りました。
ブラジル領事館へボランティアビザを申請すると、何と数ページに及ぶ各種書類の提出要求が書かれていました。介護士の資格証明をブラジル政府公認の翻訳家の訳した書類を提出しなさいとか、受け入れ側の資産状況を示す書類を提出せよなど、これらの色々な書類を調えるために、約半年かかりました。領事館からこれでいいでしょうと
許可が下りるまでに、提出してから何と3か月弱ほどかかりました。
こうして渡伯(ブラジル=伯剌西爾)して、毎月、日本へ「ブラジル情報」や「ブラジルニュース」を送りながら、2年間、ボランティア活動を続けました。
といっても私は面白いと思ったことや、やりたいことをやっているだけという感じが強いのですが・・・。40年間、教職にあって、教材集めや生徒指導をやってきたので、理論ではいろいろ知っているのですが、実際にやることはほとんどありませんでした。車椅子のパンク修理なども実際に修理するのは初めてでした。でも、1週間もすると簡単に修理できるようになりました。
私にとって「憩の園」のいいところは、いろいろな仕事があるということです。
家具の修理にしてもブラジルの家具の構造は知りませんでしたが、いくつかを直したり、壊したりしているうちに特徴がわかり、修理可能かどうか分かるようになりました。マドレ(シスター)にベランダの手すりを作ってほしいといわれて、2週間かけて何とか作り上げましたが、竹の細工はあまりしたことがなかったのと、ブラジルの竹の性質を知らなかったのとあいまって、だいぶ苦労しましたが、いろいろなことが分かってとても楽しく感じました。
2年間働いて、ブラジルの問題点やブラジル人の行動の仕方、日系人の置かれた立場などいろいろ分かって来ました。
ブラジルの人々の大きな特徴は、人のことに干渉しないということ。バスや地下鉄で、大きな声で携帯を使っていても誰も迷惑そうにする人は居なくて、それが
当然のようにしていること。これは日本のように公共交通機関内では携帯は禁止というルールが無いからです。但し、病院などでは禁止になっています。
ブラジルではビーチサンダルを中心にいろいろなサンダルがありますが、右左別なものをはいているのを時々見かけます。どんな格好をしていようと、人にはそれぞれ事情があるのだと理解しているようです。そういう意味では日本よりずっと住みやすいように感じます。
貧しい子どもたちは30年前にブラジルへ来た時は人の集まる所や交差点で信号待ちをしている車にお金をせびっているのをよく見かけましたが、今回はそうした子供たちはほとんど見かけません。代わりに、少し時間の長い交差点で信号待ちをしている車の前で、ジャグリングをしたり、サッカーボールを自由に操って見せて、何台かの車からお金をもらっています。
付け加えますが、私は今でもポルトゲスを話せません。特に相手が何を言っているのかよくは分りません。ただ、自分の主張したいことだけは、片言のポルトゲスというよりはコロニア語で言います。それでも単語さえ正しければ用は足ります。というより、相手が配慮してくれるからでしょう。
2013年9月、いろいろな経験をさせていただいたことを本当に心から感謝し、なんとか日本に帰って来ました。ブラジルは、最後まで面白かったです。ブラジルでは出入国の際には必ず連邦警察の審査が必要です。その審査の時、パスポートのビザ期限が切れているということで別室へ呼ばれました。ドクメント(連邦警察発行の身分証明書)の延長許可書を提出したら、ビザ期限が414日オーバーしているから、828ヘアイス(約36,000円)払うようにということでした。「ブラジルのお金をそんなに持っていない。」と言うと、「今度来た時に払ってください」。
インフレが進んでいるうえに、来るか来ないかもわからないのに、さすがブラジル・・
ですね。
酒井正之先生 プロフィール
1957年 南山中学男子部 入学
1963年 南山高校男子部 卒業
1968年 ノートルダム清心中学・高等学校就職
1973年 南山高等・中学校女子部講師
1974年 南山高等・中学校女子部社会科専任
2009年 南山高等・中学校女子部退職