2015年4月26日
3月中旬、読売新聞の紙面だったと記憶するが「シニア大学生支援」の記事が目に
ついた。「シニア」とは、公園や美術館の入場券からしても65才以上をいうのだと
思うが、要は65才以上の大学生・院生の入学枠と授業料において、公園や美術館同様に
優遇する大学が出てきたということらしい。少子化対策の大学側の苦肉の策であったと
しても、向学心溢れるシニアには何とも有難い方向である。
40数年前、アメリカの友人を訪ねた時、友人の母上が64才で美大生となり生き生きと
100号のキャンバスにファミリーツリーを描いていたことを思い出す。勉学というのは
不思議にも、ある程度の年令に達した方が すんなりと受け入れられる感がある。この
シニア年令での尋常でない向学心と貪欲に吸収しようとする姿勢は、現役の大学生
からは想像できないものである。シニア大学生の大半は、より専門的な勉学を望んでの
再入学であるし、年令からも、これが最後のチャンスという気合いの違いである。
さて、では、私がなぜ「今でしょ!」という話である。そこには、男子部同期
(S18)のAくんと、遡れば「南山時代」が登場する。Aくんは小学校からの付き
合いで、今も時々、長電話し、帰省の折には実家から徒歩5?6分にある4坪ほどの
「A農園」に農作業の様子を見に行ったりの仲である。いつの間にかの60年の付き
合いになった。世間話をしながらも、あの、やんわりした雰囲気のAくんから結構、
納得いく答が返ってくる。そのAくんが3年前、こう言った。「この世を卒業する時、
やり残してのままは嫌だからYoutube で英語の勉強を始めた!」
その頃、私も同じことを考えていた。特別な人生でなくとも「あぁ、これで良し!」
と去りたいものである。ちょうど、10年間に及ぶ実家の役目を終えたところで、体力も
気力も余力も消滅していたが、なぜか「今でしょ!」という力は湧いてきた。両親の
介護、看取り見送り、相続のための新幹線往復に途切れてしまった自分の時間の
再稼働を望んでいたからだと思う。まだ間に合うことを知った武蔵野美術大学の
編入試験の願書を郵送した。武蔵野美術大学工芸工業デザイン学科には社会人枠が
ないため、一般入試での挑戦で、3点の作品、A2サイズのポートフォリオの準備には
ぎりぎりの1ヶ月であった。
12月4日、工芸工業デザイン学科クラフトの主任教授、教授がずらりと並んだ前で、
持参作品3点の講評、ポートフォリオの講評、面接。時の勢いで願書を出したが、
おそらく前例のない年令の受験生である。「恥をかいて終わるも良し!」と覚悟を
決めて試験場に入室した。
平成24年12月25日、武蔵野美術大学正門にある掲示板に合格者氏名が張り出された。
専攻別に合格者は1、2名であった。しみじみとした気持ちで合格者氏名を確認し、
広いキャンパスを眺めてみた。私の合格により、1名の未来ある若者が落ちたかと
思うと申し訳ない気持ちもあったが、65才の受験生の合格を決定した大学の勇気に
素直に感謝した。ブランクは長いが、女子美術大学で学びきれなかった陶磁の実技の
続編である。
しかし、これほどの力が出せたのは、単にセンセーショナルな挑戦をしてみたかった
だけではなく「南山時代」に遡る。私にとって、今でも実は「南山」は「鬼門」で
ある。既に級友達は私のことなど記憶になくなっていることであろうが、「南山
時代」、私は図書室にいる時間の方が楽しかった。好きな科目と嫌いな科目での
試験の点数は100点と20点という結果であった。図書室の本を全部読んで卒業する
予定であったから、教師が嫌いでやる気の失せた科目の授業中は読書をしていた。
親にも何度か注意がきた。まんべんなく勉学することをしなかったことに後悔は
なかったが、勉学するはずの年月を、何だか、残してきたようなトラウマがつき
まとった。「南山」を卒業後、このトラウマが何かにつけ原動力になったのは間違い
ない。女子美術大学では、残すべき時間と結果を残し、仕事もしかりである。
「アレがあったから 今のコレがある」というのが、人の常である。私にとって
「アレ(南山)があったから 今のコレ(武蔵野美術大学)がある」。「終わり良ければ
すべて良し」という言葉もあるが、結局のところ、人の時間の使い方は プラス
マイナス ゼロ で終結するらしい。
4月、卒業年度の新学期が始まった。武蔵野美術大学の桜は、今春も見事に咲いた。
小山しげ子 G13
現在 武蔵野美術大学 工芸工業デザイン学科 4年
職歴 大阪万博 インドネシア政府 インドネシア大使館 カナダ大使館
医療法人社団こやま会 SRコーポレーション(自社)